coco

心をちょっとずつほぐしましょ

看取りの途中

年老いた人、病を抱えた人たちと過ごしている

と、私たちはこの人を看取りつつあるんだと

感じる。「私たち」というのは、その人を

支える人たちも含めてのこと。

 

 

2022年11月。

私は、とあるマンションの一室にいて、

一人の男性の話を聞いていた。

 

80歳を過ぎた頃だっただろうか。

気丈な印象だったその人は、夏に胃腸の調子が

悪くなり、検査の結果、胃がんであることが

分かった。検査や入院の予定について、

事細かに連絡をくれた。

おそらく、不安だったのだと思う。

 

術後は、通院で経過観察をしていたよう

だった。季節は秋になっていた。

訪問してゆっくり話したことがなかったので、

他の用のついでではあったけれど、訪ねて

みた。

 

結果、最近の体の状態や生活の様子から、

昔話へと移っていき、1時間近くが経過して

しまった。

 

東京だか大阪だか、都会のお寿司屋さんで

修行した後、地元の繁華街で店を構えた

寿司職人だった。その人は、私がすでに

そのことを知っているかのように話したけど、

私は内心、「お寿司屋さんだったのか!」と

思いながら聞いていた。

 

昔話を聞きながら、何となく感じていた。

この人は、もうそんなに長くないんじゃないか

と。もちろん、体が弱っているのが分かって

いたからというのもあるけど、こういう話を

聞いてしまうと、何というか、料理でいうなら

〆のご飯かお味噌汁のような気がして、つまり

終わりが近づいている感覚になるのだ。

 

タンスの上の小さな仏壇に供えるご飯を、

何とか毎日炊いているんだと話すのを聞いて、

立ち上がり部屋を出る前、自然と私の体は

その仏壇の前へ向き、手を合わせた。

この人とゆっくり話が出来て良かったと

思った。

 

 

12月の初めに体調が悪化し、そのまま入院と

なった。年明け、まだ退院できそうにないん

だと電話があった。体の痛みが増している

らしい。それでも、提出する書類のことを

気にして、甥に頼んで郵送すると言った。

数日後に届いた書類の文字は、震えていた。

半年前までの字と比べて、明らかに変わって

いた。

 

2月のある朝、新聞のお悔やみ欄に目をやると

その人の名前があった。

「あ…」

病院から連絡がまだ来ていなかった。

 

家族でも、知人でもない人。仕事で関わった、

知って1年も経たない人。もう、いないんだ、

と思った。そして、日々の出来事があまりに

多く、あの日の小一時間を思い出す暇もなく、

仕事として事務処理を行って終わった。

 

今、思い出しながら書いている。

 

人生の最期に立ち会ったというと大袈裟な

気もするし、お互いにとって、そんなに

思い入れのある関係ではない。

ただ、その人がどんな人生であったかを

成り行きで少しだけ、知ることになった。

そんな感じ。

人と人の交わりは、全く偶然で、深い意味を

見出す必要もない気がする。

でも、共有した時間があったんだな、と思う。

 

 

次回はある女性のお話を。

お読みいただき、ありがとうございました。

 

 

コーヒーの躓き

お昼前、母のコーヒーを準備していた。

1杯分なので、コーヒードリッパーを直接マグカップの上に置くんだけど、

下が平らじゃなくて円錐で3本支柱がある(伝わるかな?)ような形だから

カップに載せるとグラグラする。絶妙なバランスで慎重にお湯を注がないと

いけない。そして、手などが触れないようにしないといけない。

すぐ隣で私の烏龍茶を淹れている。

 

あっっ!

 

お湯を注いだらバランスが崩れ、ドリッパーは傾き、中の豆とお湯がステンレスの

台にこぼれた。しかも、シンクの上のスライドタイプの台とシンクの隙間に入り

こんで、拭くのが面倒なパターン。台の上には食器が入った水切りかご。

 

ちょっとイラっとした。でも、何事もなかった気持ちでサッと拭き始め、慎重に

台をスライドさせた。ところが、かごの端が台からカチャッとずれて、端っこに

あった箸入れから、箸やスプーンが飛び出てバラバラとシンクに落ちた。

 

あーあ・・・

ちょっとトイレにも行きたくなってて、また少し心の中がざわついた。

気を取り直してスペースを確保し、かごを移して台とシンクを拭いた。

床にこぼれていた豆とお湯も拭いた。よし。

 

また、ドリッパーにお湯を注いだ。また、傾き、そして温めておいた私のカップ

中に少しこぼれた。すすいで、もう一度カップを温めた。

 

果たして、母が帰宅する前に1杯のコーヒーが出来上がり、私の烏龍茶も

急須にたっぷり用意できた。そのあと、シンクに落ちた箸たちを洗って戻した。

 

何でもないこと。

 

ただ、と私は想像していた。これが出来ず、あぁもういいや、汚れたままでも

散らかったままでも片づける気力もない、になる場合もあることを。

 

もしくは、これが人生の出来事だったとしたら、と。

何か一つにつまずいた。立ち直るにはちょっと努力が必要。他にも並行して

していることが頭の片隅にちらついている。焦る。

何とか立て直し、よし、またやり直そう、という気持ちになったところで、

また心を挫く出来事が起こる。体の調子も悪くなったりする。することが

増えていたりする。ますます焦る。すべてやめてしまいたくなる。

 

健康であれば、余裕があれば、何でもないことが、負担になっていく。

乗り越えることができればそれは、一時的なものになる。

一方、それがきっかけで、長期的なものになることがある。

立て直すことが、難しくなっていく。魔法のように「ある日突然、元に戻」らない。

 

自分でケアできるか、周りにケアしてくれる人がいるかが、とても大事だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

《映画》月の海

https://tsukinoumi.com/

 

私の好きな、ミニシアターで上映されていた。

 

都内の一軒家で暮らす、認知症の晴江さんと

静子さん。2人は義理の母娘。

晴江さんの息子の豊は、5年前に家を出て

行方不明、娘の虹子は自分の家庭があり、

介護には関わらずたまに様子を見にくる。

 

文字どおり献身的に晴江さんの世話をする

静子さん、でも晴江さんから投げつけられる

のは泥棒呼ばわりの言葉。

 

そんな生活が変わったのは、本当の泥棒が

家に入ってきたことがきっかけ。

静子さんと泥棒の姿を見た晴江さんは、

豊が帰ってきたのだと思い、そして静子さんの

名前を呼んだ。

 

奇妙な3人での生活が始まった。

 

3人が食卓を囲んでいる時、晴江さんが

嬉しそうにご飯を頬張っていた。それを見た

静子さんは、穏やかに微笑むのだ。

ふだん、どれだけ報われなくても、苦労して

いても。

それでも、嬉しい瞬間は存在する。

それで報われるわけじゃないと思う。

辛さとちょっとした幸せは、打ち消し合うこと

なく、同時に存在している。

 

静子さんにとって晴江さんは、かつて自分を

娘のように可愛がってくれた人だから。

 

老いは人を変えるし、まわりの人との関係も、

まわりの人をも変えることがある。時にそれは

幸せとは逆のように見える。

 

介護や認知症について、本人も、まわりの人も

とても抱えきれない現実があることを、私は

多少なりとも日々実感している。だから、胸が

苦しくもなった。でも、晴江さんを見て微笑む

静子さんの気持ちも、その時その空間に流れる

優しい空気も、わかる。

 

人と人が関わりあい、生きていく、ひとつの姿

をみた。どうすべきであり、何が良い、悪いと

いうのはないけれど、、

 

 

教育基本法第14条

(政治教育)
第十四条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

 

◎昭和22年教育基本法制定時の規定の概要

https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/004/a004_08.htm

思考メモ

今の社会の有り様は、決して多数派のみに

有利なものではないのだろうけど。

多vs少の枠組みに基づいてはいるのかな、と。

 

それで、少数派の人は、配慮されているよう

でも、不満が消えることはない。

どの面でマイノリティなのかってことなんだ

けども。

 

社会の中で、カテゴライズされても、人は

ただの個人でもあるから。

その人のプライベートと思われる人生に、

社会の影響は入ってくるから。

 

聞かないと、その人の悩みや、価値観や、

意見が何なのか分からない。

聞いてもらわないと、自分のそれらが

分かってもらえない。

 

お互い、聞く、聞いてもらう態度がないと、

新しい方向性は開かれない。

22番

2020年12月25日に公開された映画

『ソウルフル・ワールド』

https://eiga.com/amp/movie/91943/

 

人間になる前のソウル(魂)たちの世界で、

人間の世界がいやで興味を持てるものがなく、

何百年もソウルの姿のままの

「22番」が登場する。

 

これを観たとき、私は単純ながら思った。

 

22番って私じゃん。

 

というのは、私の誕生日が3月22日であり

聞くところによると、予定日は2週間以上前

だったにもかかわらず、なかなか生まれる気配

なく、もう少し遅かったら危険な状態だった

そうなのだ。

 

そして、生まれた後はとにかくよく泣き、

あまりにも泣くので若き日の母も困りはてて

一緒に泣いていたというから…

 

よっぽど、出てきたくなかったんじゃないかと

思ってしまうわけ。

 

今も私は、生まれたときが一番勇気が要った

だろうと思う。だって、生きていることは、

こわいから。

 

今の私は、幸せだけれども、辛いと感じる

出来事は、直接的であれ、間接的であれ、

避けることはできないから。

 

その辛さが、具体的にどんなやつなのかは、

さっぱりわからないから。

 

だけど、私は生まれてきた。

そして、36年、生きてきた。

 

何となく、「ふつう」に生きていた私は、

いつのまにか、この世界にいながら、

この世界と距離をとりながら生きるように

なっていた。

たとえるならば、遠足やウォーキング大会で

一番後ろの方を歩いているような感じで

(たとえじゃなく、そういうことは実際に

あったけれど)、

あの人めっちゃ飛ばして行ってるな、とか

あの人はおしゃべりに夢中だな、とか

あの人ひとりで歩いてるな、とか

ぼんやり見ながら歩いている感じ。

 

でも、取り残されたくないという気持ちが

ちょっとあるから、急に走って追いついて

みたりもする。

 

こんな自分のことは、正直、めんどくさい。

だけど、たぶん、大切にしてるものが、

そういう自分の動きの中にあるんだろうとも

思っていて、さんざん自己嫌悪と付き合って

きた結果、今から生き方を変えるのはムリ

だし、変える必要はないのだというところに

落ち着きつつある。

 

悩まなくなるわけでないのは、変わらないと

しても。

 

人は、それぞれ弱みを持っている。

他の人と比べるものではない。

 

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久しぶりにログインしたら、昨年3月頃に

書いた下書きを発見してしまいました。

未完成なんだけど、せっかく見つけたので、

もうこのまま投稿しちゃおうと思います。

 

2023年も、よろしくお願いします!

お読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦うことがわからない

アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』

という本のタイトルを、読んではないけど、

食器を洗いながら思い出した。

 

そして、食器を洗いながら、思う。

戦争を企てる人たちは、どんな日常生活を

送っているんだろうか?

 

食事を自分で作ったり、部屋を掃除したり、

ゴミ出しをしたり、しているんだろうか。

どんな子育てをしているんだろうか。

 

愚問?

 

でも、言いたいのだ。

自分の世話きっちりしてみろよ、と。

自分が前線に立てよ、と。

 

何も偉くない人が、権力を持っているから、

軍を動かせる。軍人は、命令に従い、動く。

一般市民も、戦いに参加させられる。

建物が壊され、死人や怪我人や、不安で

怯える人が何人も出る。

 

あの国の指導者だけじゃない、非難したり

制裁したりする側の国の指導者たちだって、

もちろん、してることは悪いけど、

一方的に相手を悪いと責めるだけじゃ、

同じことの繰り返しだ。

自分たちが正しい、と主張する限り。

 

戦争ゲームが好きな人だって、本当に戦争

したいか、してもいいか、というとそれは

別だろう。

 

なぜ、一部の人が、本当にしてもいいの?

それを許す仕組みの中で私たちは生きている

からだ。言ってしまえば、何千年も世界中で

続いてきたことだ。

 

だけど、そんなの許せないと思う。

 

これが何の戦いかといえば、人の矛盾との

戦いじゃないかとも思う。

 

一人で何か食べて寝るだけの生活じゃなくて

人が集まって、協力していろいろ作って、だけ

でもなくて、いろんな面で対立もして、

じゃあ対立した時に、武器を作って、人を

殺すのは当然だ、もしくは、仕方ない、で

いいのか。

 

いいはずないってなってるけど、

みんな武器を捨てられない。

武器を持ちながら、それを使わないように

しましょう、っていうのが外交なのか。

 

単純に、武器を持たない、じゃだめなの?